2026-05-29

『蝦夷異事』の複写物掲載許可証

 北海道立公文書館所蔵の以下の5件の古文書について、ブログへの掲載許可をいただきました。

2026年5月26日

 

 請求記号

 

      資       料       名

 

 使用箇所

旧記/89

旧記/1786

旧記/1787

旧記/1788

旧記/1789

魯西亜船蝦夷地乱妨一件

蝦夷異事

蝦夷異事 二 文化四年

蝦夷異事 三 文化四年

蝦夷異事 四 文化四年夏恵登呂府之記

全て

全て

全て

全て

全て



2026-05-16

松前奉行役職者名一覧(文化4年~文化8年)

 松前奉行役職者名一覧(文化4年~文化8年)

『蝦夷異事三』では、文化4年末から、松前奉行所の役職に任命される例が多数出てきます。

『文化武鑑』(国立国会図書館デジタルライブラリー)で、文化4年から文化8年までの役職者の名前を確認してみました。

文化4年の文化魯寇の後、当初は、「津軽藩」と「南部藩」に蝦夷地の守りの出兵を依頼していました。

文化4年末に、幕府は「仙台藩」「会津藩」にも出兵を依頼し、それを監督するため、松前奉行所の体制を強化するため、役職者を急増ししています。

以下の表から、文化6年以降、新しい役職を作ったりして人数を大幅に増やしていることがよくわかります。



『蝦夷異事三』P48~P55の翻刻・読みの試案

  『蝦夷異事三』P48からP55までの翻刻・読みの試案です。(5月31日追加訂正)

間違いがありましたらご指摘いただければ幸いです。

『蝦夷異事三』P56~P66の翻刻と読みの試案

  『蝦夷異事三』P57~P66の翻刻と読みの試案(2026年5月31日更新)

間違いがありましたがご指摘いただければ幸いです。

薄緑背景。訂正したところ。

*茶背景は原文

*黄色の背景は自信のないところ

*赤背景は分からないところ

文化3年(1806年)1月から文化5年(1808年)12月までの月初めの西暦年月日との対照

  古文書は和暦で書かれていますが、旧暦ですので

現在の季節感と必ずしも一致しません。

おおよその西暦との対照表を和暦の月初めの日と西暦の年月日とを対照してみました。

参考にしたのは以下のサイトです。

文化3年

文化3年1月1日(1806年2月18日)

文化3年2月1日(1806年3月20日)

文化3年3月1日(1806年4月19日)

文化3年4月1日(1806年5月18日)

文化3年5月1日(1806年6月17日)

文化3年6月1日(1806年7月16日)

文化3年7月1日(1806年8月14日)

文化3年8月1日(1806年9月12日)

文化3年9月1日(1806年10月12日)

文化3年10月1日(1806年11月10日)

文化3年11月1日(1806年12月10日)

文化3年12月1日(1807年1月9日)

文化4年

文化4年1月1日(1807年2月7日)

文化4年2月1日(1807年3月9日)

文化4年3月1日(1807年4月8日)

文化4年4月1日(1807年5月8日)

文化4年5月1日(1807年6月6日)

文化4年6月1日(1807年7月6日)

文化4年7月2日(1807年8月5日)

文化4年8月1日(1807年9月2日)

文化4年9月1日(1807年10月2日)

文化4年10月1日(1807年10月31日)

文化4年11月1日(1807年11月29日)

文化4年12月1日(1807年12月29日)

文化5年

文化5年1月1日(1808年1月28日)

文化5年2月1日(1808年2月26日)

文化5年3月1日(1808年3月27日)

文化5年4月1日(1808年4月26日)

文化5年5月1日(1808年5月25日)

文化5年6月1日(1808年6月24日)

文化5年閏6月1日(1808年7月23日)

文化5年7月1日(1808年8月22日)

文化5年8月1日(1808年9月20日)

文化5年9月1日(1808年10月20日)

文化5年10月1日(1808年11月18日)

文化5年11月1日(1808年12月17日)

文化5年12月1日(1809年1月16日)

文化4年当時の江戸幕府の老中・若年寄一覧

 大武鑑巻六を元に、一部Wikiの情報を使ってまとめてみました。

間違いがありましたらご指摘いただければ幸いです

文化5年、高田屋本店(箱館)の持ち船

  『高屋養庵による仙台藩クナシリ島警備記録』(国立国会図書館デジタルライブラリー)より

P111~112P 文化5年(1808年)7月29日の記録部分に

高田屋の船頭からの話が載っています。

クナシリ渡海の時はこれらの船を使ったようです。

高田屋所持之舟

辰悦丸        千六百石 

貞宝丸        千四百石

辰久丸        千二百七十石

辰繁丸        千石

観光丸        千四百石

昌徳丸        千百石

厚徳丸        千石

安泰丸        七百石

宝寿丸        千石 

久宝丸        七百石

永久丸        五百石

順徳丸        六百名

虎成丸        千石

又宜丸        千弐百石

  (14艘)

   クナシリ渡海之節、右船へ乗

但当年壱艘新造有之由、千石己上と相聞得申候

2026-05-12

お鉄炮方 井上左太夫

 『蝦夷異事三』P39,p44に出てくる井上左太夫は

井上家は代々続く鉄炮方で、代々井上左太夫を名乗り、国産銃器を受け持つ。

P39で、11月8日、下田、浦賀、房州、総州海岸見分を命じられ、


P40の朱書き「同十二月十五日御勝手より帰府御目見」は、『江戸幕府年録』の十二月十五日の所に御勝手より帰ってきた記載があり、後日朱書きで書き入れられたものと思われます。

P44では 先祖制作之大筒を差上げて金拾枚の御褒美をもらっています。



接頭辞「御」の読みは「お」「ご」「おん」のどれか?

 「御」をどう読むか?


江戸時代はどうだったのか、『近代古文書用語辞典に載っている言葉をチェックしてみました。
この辞書に「御」の付く使用例がすべて採集されているわけではありませんが、

(1)訓読みの語(和語といったほうがよいかもしれません)の前で「お」と読むのはほとんどですが例外もあります。でも、数は非常に少ないです。
* 音読みの前で「お」と読む例外
  御小性(おこしょう)御台場(おだいば) 御師(おし) 御天馬宿(おてんましゅく)御納戸(おなんど)

(2)音読みの語の前で「ご」と読むのも全くと言っていいくらい例外がありません。法則と言っていいかもしれません。
*例外 御尤(ごもっとも)

(3)「おん:御」については、『岩波古語辞典』で
「〖接頭〗《オホムの約》貴人の所有物・行為などに冠し、また貴人に向かって差し上げる物や、する行為に冠し、また形容詞の上について尊敬の意を表わす。院政時代以後に現れた形。室町時代以後は書き言葉や、荘重な話し言葉に使われ、日常の会話にはこれの省略形である「お」が使われた」
とあります。
我々が扱う古文書では、よっぽどの貴人以外は「おん」と読む必要はないように思います。

2026-05-06

[『蝦夷異事』の書写者は「村上茂用」か「村上義用」か

 書写された古文書の書写者、書写年などはほとんどの古文書で記載されていません。

貴重なことに『蝦夷異事1~4』では、2・3・4の奥付に筆者年と筆写者が記されています。

1.この筆写者は字の崩しが似ているので「村上用」か「村上用」かどちらだろうかという問題があります。

(1)『蝦夷異事 二』


(2)『蝦夷異事 三』

   *名前の後の文字は「写之:これを写す」とは読めないでしょうか?

(3)『蝦夷異事 四』


(4)他の資料で「定姫様御親戚」https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023476/28?ln=jaの末尾に同じ筆写者と思われる奥付があります。

 この資料の奥書の翻刻では、「文政九□年二月十六日/村上茂用」となっています。



2.『蝦夷異事1~4』は全てこの筆者の筆写のと思われるので、「茂」と「義」の字が出てくる筆字をいくつか抜き出してみました。

(1)「茂」

(2)「義」


両者は非常に似ていますが、「義」より「茂」に近いような気がします。


筆写者は「村上用」という結論でどうでしょうか?


3.参考までに児玉幸太編『くずし字用例辞典 普及版』(東京堂出版)での崩し字を載せておきます。

(1)「茂」


(2)「義」

2026-05-05

「列座」「侍座」「出座」の出現回数

  文化3年1月~文化5年12月までの『江戸幕府年録』『江戸幕府日記』での

「列座」「侍座」「出座」の出現回数と使い分け


申渡しの場がどんな場面下で、使い分けがあります。
A、「老中が申し渡す時」は 必ず「老中列座」 「若年寄中侍座」で例外はありません。
 この時、「若年寄列座」「老中侍座」はありません。
B、「若年寄が申し渡す時」は老中は出ていず、『江戸幕府年録』では必ず「若年寄中出座」ですが、『江戸幕府日誌』では「若年寄列座」を使っている場合もあります。この場では最高位は若年寄なので「列座」と記録することの可能だったのではと思っています。


「列座」は申渡しの場で最高位の者に対して使うことが可能な表現かと思います。老中が申し渡す時「若年寄(中)列座」の使用例は0です。
 「若年寄列座」を使うのは『江戸幕府日記』の筆記者に限られ、『江戸幕府年録』では0です。


『江戸幕府年録』と『江戸幕府日記』の同じ記録での
若年寄出座と 若年寄列座
文化三年十月九日
『江戸幕府年録』

『江戸幕府日記』


C、老中出座」という例も数は少ないですが、見られます。
 『江戸幕府年録』9回、『江戸幕府日記』1回 
 これらは、いずれも、公方様、大納言様、日光門主などが出席している時で、
 老中が最高位でないので「列座」は使われなかったのかと思いました。



老中、若年寄などの役職と、列座、侍座、出座などが関係しているのではなく
その場の中でどんな立場なのかで使い分けられていると思います。

よく使うWebサイト、参考になる本

 よく使うWebサイト

1.北海道立公文書館資料検索

2.国立国会図書館デジタルコレクション

3.北海道大学北方史料データベース

4.函館市中央図書館デジタル資料館

5.秋田県/図書館・公文書館・文学資料館デジタルアーカイブ



参考になる本

1.『くずし字用例辞典』児玉幸多編 東京堂出版

2.『近世古文書用語辞典』佐藤孝之・天野清文編 吉川弘文館

3.『近世史を学ぶための古文書「候文」入門』 佐藤孝之監修 吉川弘文館


2026-05-03

『蝦夷異事』の内容と関係のある史料

 『蝦夷異事 1~4』は北海道立公文書館所蔵

 1冊に製本された原本と、マイクロフィルム化されたものがある。

 文政5年(1822年)村上茂用により筆写されたものと思われる。

1,『文化丁卯松前異事録 1~5国立公文書館デジタルアーカイブ

(1) 「1~4」は『蝦夷異事1~4』とほとんど同じ。但し『蝦夷異事』にある地図等の図はない。

(2)『蝦夷異事1』の最終頁にある3行が『文化丁卯松前異事録 1』にはない


  『蝦夷異事1』






  『文化丁卯松前異事録』






(3)『蝦夷異事』にはない『文化丁卯松前異事録5』がある。


2,『魯西亜船蝦夷地乱暴一件』 北海道立公文書館所蔵

 (1)『蝦夷異事一』とほとんど同じ。『文化丁卯松前異事録一』で欠けている地図や、最後の3行の文章もある。

(2)題簽は最初の文章の1行目から取られている。


2026-05-02

「お」や「御」を付ける基準(Quoraの回答より)

 https://qr.ae/pFIhnI

国文法で丁寧語と呼ばれるものです。これらは宮中の女官言葉でした。それゆえにこれらに基準を求めるとなれば、1.古くからあるもの、2.身近なもの(当時)になります。食品に「お」や「ご(御)」をつける基準は、実は厳密なルールがあるわけではありません。・ 伝統的な「女房言葉」の名残りが最も大きな理由です。上品で優雅に話すための隠語のような言葉(女房言葉)が流行しました。

もともとの言葉に「お」をつけたもの

• おでん(田楽)、おむすび(結び)

「お」をつけて下部を省略したもの

• おさつ(さつまいも)、おなす(なすび)

大根は古くから日本人の食卓に欠かせない重要な野菜だったため、「お大根」としてこの文化の中で定着しました。一方、はんぺんは江戸時代以降に広く普及した加工食品であるため、女房言葉の濾過器を通るには時宜を逃しました。

2. 音の響き(語呂の良さ)

日本語には、耳で聞いたときに「心地よい」「発音しやすい」と感じるリズムがあります。

和語(日本古来の言葉)には「お」がつきやすい

• お米、お肉、お魚、お野菜、お豆腐

漢語(中国から伝わった言葉)には「ご」がつきやすい

• ご飯、御膳

外来語には基本的につかない

• おトマト、おハンバーグ、おラーメンとは言いませんよね。

また、文字数が少なすぎる言葉(「お肉」「お酢」など)は、そのまま単音で呼ぶとぶっきらぼうに聞こえるため、「お」をつけて言葉の座りを良くする傾向があります。

3. 高級感・ありがたみ

その食品が貴重であったか、あるいは神事やハレの日の食事(行事食)に関係しているかどうかも影響します。

• 命の源である「お米」「ご飯

• お正月に欠かせない「お餅

これらは感謝や敬意を込めて「お」や「ご」が定着しました。

「はんぺん」や「ちくわ」などは、庶民の日常的なお惣菜・練り物として親しまれてきたため、あえて美化して呼ぶ必要性が薄かったと言えます。日常的に使う言葉なのに、言われてみると「確かに!」と膝を打つ疑問ですね。食品に「お」や「ご(御)」をつける基準は、実は厳密なルールがあるわけではありません。ですが、**歴史的な背景、言葉の響き、そして「その食品がかつてどう扱われていたか」**といういくつかの力学が働いています。

※意外かもしれませんが「おいしい」もこれらと同じです。「お=ていねい」+「いし=うまい」です。

『蝦夷異事三』P39の欠けている部分

  『蝦夷異事三』P39で

文化4年十月廿四日  同八日

となっていますが、

『蝦夷紀聞道立文書館』下39に この間に十一月朔日が入っています。

これを補って考えると、同八日は十一月八日となります。

また、この内容は、『江戸幕府年録』の該当の日付に出てきます。


2026-05-01

文化魯寇に際しての処罰

 

文化魯寇での対応で、多くの者に処分を申し渡された文化4年12月27日に、菊地惣内は江戸にいなかったので処罰を申し渡されていません。

しかしながら、文化5年6月22日帰府直後、6月29日に役儀取放、御目付以下小普請入押込と
山田鯉兵衛と同じ処分を受けています。

詳しい処分理由は下をご覧ください。

処罰
●松前奉行 羽太安芸守
 当夏中魯西亜人、ヱトロフ島ヘ罷越及乱妨候節、詰合之者共平日之心掛不宜、聊之儀に度を失ひ、防之手段にも至らす立退候、畢竟常々申付方不行届故に候處、兼々取締相整候由申聞候、段不都合之儀、且又右之節、其方箱館より申上方其外取計も麁忽之仕形、旁不調法之至に候、依之御役御免、小普請入逼塞被仰付もの也、

松前奉行支配調役下役元締 中村小市郎
 其方儀、当夏クナジリ島ヘ參會居候節、カシヤの方に大筒之音相聞、異国船寄来候趣に候處、右場所には向井勘助一人詰合罷在候を不心附、取急自分持場へ罷越候とは乍申、右場所引取候段不行届之儀に付、急度叱置之、

松前奉行支配吟味役格 山田鯉兵衛
 其方儀ゑと云ふ嶋は異国境之事故御要害第一に心懸可申処取締候儀迄申聞御備向ゆるかせに有之候段初発ゟ相詰候詮も無之当夏音西亜人及乱妨候節も相違之儀を申立候始末惣而表裏之勤方不埒之至ニ候依之役義取放し御目見以下え小普請入押込被仰付候

松前奉行支配調役下役元締 戸田又太夫
 右ゑといふ伝え魯西亜人共渡来之節会所を明退自殺候に付御宛行幷屋敷上り候御勘定奉行御普請奉行可被談候

松前奉行支配調役下役 關谷茂八郎 児玉嘉内
 右之者共儀悪といふ嶋えおろしや人渡来之節会所を明退候段未練之始末不届之至ニ候依之重追放申付候

松前奉行支配同心 羽生家次郎、小島官蔵、粕屋與七
 此者共儀恐とろふ嶋えおろしや人渡来之節戸田又太夫関屋茂八郎倶へ会所を明退候段不届之事に候依之江戸払申付候

松前奉行支配同心 井瀧長藏、橋本幾八
 其方共儀、エトロフ島ヘ魯西亞人渡來之節、戸田又太夫、關谷茂八郎倶々會所を明退候段、不届之事に候、依之江戸払申付之、右之通可被申渡候、(朱書)辰二月二日申渡、

松前奉行掛松前地役雇之者 森重左仲 内野五郎左衛門
 リイシリ島に船繫致し候節、異国船渡来候由承、御武器并御船を捨置逃去候始末、不届之至候、依之江戸払申付之、

松前奉行 戸川筑前守
 去年エトロフ島ヘ魯西亞人罷越候節、詰合之もの共立退候始末、兼々取締相整候由申聞候とは令相違候、畢竟支配之もの共へ、申付おろそかなる故と相聞、不調法之事に候、依之御役御免被成もの也、

松前奉行支配吟味役格 菊池惣内
 其方儀、エトロフ島之儀引受罷在候上は、御要害第一心掛可申處、御備向等閑に致し置、去年夏露西亞人及乱妨候始末、旁不埒之至候、依之役儀取放、御目付以下小普請入押込被仰付之、

「列座」、「侍座」、「出座」の使い分け

 「列座」、「侍座」、「出座」の使い分け

 申渡す者が老中か若年寄かで使い分けている。

 

老中について

若年寄について

老中が申渡す場合

老中列座

若年寄中侍座

若年寄が申渡す場合

(出席しない)

若年寄中出座

()

文中場所

申渡の者

表現

P40 1行目

老中 松平伊豆守

 老中列座 若年寄中侍座

P40 5行目

老中 牧野備前守

 老中列座 若年寄中侍座

P41 後から2行目

若年寄 京極備中守

 若年寄中出座

P42 後から2行目

老中 松平伊豆守

 老中列座

P44 後から2行目

老中 牧野備前守

 老中列座

京極高久は「備中守」か「備前守」か?

 Wikiでは

京極高久

江戸時代中期から後期にかけての大名。丹後国峰山藩6代藩主。官位は従五位下備前守

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E4%B9%85


ところが、当時の古文書などでは 備中守

 右蝦夷地御用ニ付来春被遣候間可致用意旨於御右筆部や縁頬若年寄中出座【京極備中守】申渡之(『蝦夷異事三』)


しかしながら「”京極備前守高久”」と「”京極備中守高久”」で検索してみると、圧倒的に「”京極備前守高久”」が多いです。


橋本博 編『大武鑑』巻6,大洽社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8311776 (参照 2026-03-26)

で調べなおしてみると

寛政9年(1797年)までは備前守、享和3年(1803年)には備中守に代わっているので

この間に、備前守から備中守に変わったものと推定されます


(*)守が変わった例
『江戸町奉行 与力・同心の世界』滝口正哉 岩波新書 2026
 「大岡越前」に関して
P13
 ちなみに彼は「大岡越前」として広く一般に知られているが、じつは山田奉行時代、正徳二年(1712)に叙任したのは能登守だった。享保二年二月に南町奉行に就任した際に、中町奉行の坪内定鑑が能登守であったため、これを憚って越前守に改めたのである。
==
「京極備前守」も享和元年(1801年)7月から老中に「牧野備前守」が就任しているのでそれを憚って「備中守」に改めたのかもしれない。

用語「鉄炮方」「重追放」「中追放」「江戸払」「御構場所」「御勝手より」

  用語の意味

「鉄炮方」

江戸幕府の職名。若年寄の支配に属し、鉄砲の製造や射撃の教授などを担当した。のち、井上・田付両氏の世襲。(コトバンク)

鉄砲方(てっぽうかた)は、江戸幕府の役職名。鉄砲御用人、鉄砲御側衆とも。鉄砲の研究、整備および修理を行った。若年寄配下で、役料は200 - 300俵。砲術の教授、鉄砲の製作、保存、修理を主な任務とし、猪や狼の打ち払い、火付や盗賊の逮捕にもあたった。(Wiki)

「重追放」

 江戸時代の刑罰の一つで、追放刑の中で最も重い刑。立ち入ることが禁じられた御構地は、中追放の構地に加え、相模・上野・安房・上総・下総・常陸など関東一円と、犯罪者の居住地及び犯罪地であった。京都で裁かれた者は、さらに河内・近江・丹波が加えられた。また、田畑・家屋敷のほか家財も没収された。(近世古文書用語辞典)

「中追放」

御構地は武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河、および居住地と犯罪地。(近世古文書用語辞典)

「江戸払」

江戸時代の刑罰の一つ。品川・板橋・千住・四谷大木戸および本所深川の町奉行所支配地から外へ追放した刑。(近世古文書用語辞典)

「御構場所」

 御構地とも。追放刑に処せられた者の立入りを禁止した場所。(近世古文書用語辞典)

「御勝手より」

 将軍御目見えは、身分によって謁見を受ける部屋の格式があった。白書院の場合、帝鑑之間が「白書院勝手」と称される場であり、白書院の帝鑑之間で控えたのち、白書院下段縁頬に出席して謁見を受ける場合を「御勝手ゟ」と表している。(「江戸幕府の政治運営に見る格式」深井雅海氏 徳川林政史研究所研究紀要52参照)(解読 蝦夷異事一 注釈445)

P39 十月廿四日の朱書きの部分について

 P39 十月廿四日の朱書きの部分について

肥後守ト改」、「淡路守ト改」は江戸幕府年録1216日の記載にあり、それを後から追記したもの。 

辰正月廿八日御暇」はこのテキストP59にある内容、

辰正月七日御暇」はこのテキストP57にある内容を後から追記したもの。

この中の「御暇」は 『近世古文書用語辞典』:吉川弘文館2024)で

「いとま(暇)」5番目に 「大名が封地(ほうち)に赴くため、また役人が任地に赴くため江戸を離れること」とあり

松前奉行に任じられた2名が、任地の松前へ出発にあたり、江戸城においとまの挨拶に行ったことを意味すると思われます。

『蝦夷異事三』P40 「柑本兵五郎」の読み

 『蝦夷異事三』P40 「柑本兵五郎」の読み


柑本」は「こうじもと」「こじもと」という読みがあるようです。

『蝦夷異事』の出自について 1

 『蝦夷異事』の出自について 1

1    古文書の筆写本はほとんど、元資料が何で、誰がいつ筆写したのかはほとんど書かれていず、その出自を調べることはなかなか難しい問題です。

また、製本された冊子の題名も本文中に書かれていることは少なく、表紙に書かれた題簽で示されるばかりで、同じ内容でも題名が違う場合も多々あります。

そんな難しさの中、現在までのところで分かったことを書かせていただきます。

 

 比較する史料として以下の3点を使います。

 A:『蝦夷異事一』(道立文書館蔵:旧記1786))現在我々が使っているテキスト

北海道大学図書館にもあるが道立文書館の蔵書の電子複写なので、同じものと推察されます。

 B:『文化丁卯松前異事録一』(内閣文庫蔵、国立公文書館デジタルライブラリー)

北海道大学北方史料データベースに所蔵されているが内閣文庫の複写なので同じものと思われます。道立文書館は所蔵していません。Aと全く同じといってよいが、地図が含まれていず5巻まである。『通航一覧』ではこの資料を引用元に20か所ほど引用しています。

C:『魯西亜船蝦夷地乱暴一件全』(道立文書館蔵:旧記0089

A:『蝦夷異事一』とほとんど同じだが、細かい部分ではAよりBに非常に似通っています。この資料の存在でABの関係がだいぶはっきりしました。

 

 現在の段階の結論(推定)をまず最初に提示します。その根拠については後で詳しく説明します。

(1)  A:『蝦夷異事』は文政5年(1822年)村上茂用によって筆写された。

(2)  A:『蝦夷異事』とB:『文化丁卯松前異事録』は構成がほとんど同じなので、独立に作成されたものではない。しかしながら、細かい内容を検討すると、お互いを参照して作られたものではない。

(3)  C:『魯西亜船蝦夷地乱暴一件全』は細かく比較すると、B:『文化丁卯松前異事録一』と共通な資料を元に筆写されたと思われる。これから大元の共通な資料存在(未発見)を仮定します。

(4)  A:『蝦夷異事一』はBよりCに近い資料から、後で筆写されたと思われます。

 

(5)  簡単に模式図にすると

 

根拠は次回で述べます。

(続く)

仙台藩が蝦夷警固出兵の際、重い荷物を船で運んだ根拠

 『蝦夷異事三』P49以降の 「 辰(文化5年)正月五日仙台家より御届 」で、蝦夷警固のための大量の物品が挙げられています。 それらを、出兵の一行が人力と傳馬で運ぶことはできそうにありません。 船でも運んだのではないかと思っていたのですが、なかなか根拠を見つけることができないでい...